なぜ最初に「失うもの」を書くか
入門書の多くは「Linuxの素晴らしさ」から始まる。自由、速度、安定性、コストゼロ。読めば気分が上がる。だが実際に移行してから「あれが動かない」「これができない」と気付くと、最初の高揚が一気に萎む。
この本は逆から始める。最初に失うものを正直に並べる。 それでもなお得るもののほうが大きいと自分で判断できたとき、初めて移行の土台ができる。
第1章の目的は、Windowsを消す前に、Claudeと一緒にあなた個人の損得表を作ることだ。一般論ではなく、あなたの仕事、あなたのソフト、あなたの習慣に即した表を。
第一節 失うものを直視する
四つのカテゴリで整理する
「失うもの」を考えるとき、漠然と不安がるのが一番よくない。Claudeと一緒に、四つのカテゴリに分けて具体化する。
A. そのままでは動かないソフトウェア 業界専用アプリ、特定の会計ソフト、CAD、一部のAdobe製品、カーネルレベルのアンチチートを要求する一部のオンラインゲーム(Valorant、最近の Call of Duty、Fortnite など)。これらはDebianでそのままは動かない。
ただしゲームに関しては誤解されやすいので先に書いておく。シングルプレイヤー作品や Valve のタイトル、Steam Deck Verified 付きの AAA は、Flathub の Steam + Proton で大半が動く(詳細は第11章第九節)。「Linux ではゲームができない」はもう過去の話で、動かないのは上記のカーネルアンチチート系の一部タイトルだけだ。
B. 完全互換ではないが代替があるもの Microsoft Office、Outlook、Edge。これらは LibreOffice / Thunderbird / Firefox-Chromium で「置き換える」のが従来の発想だが、本書はもう一段 進む。自分の作業領域は Markdown と CSV と Python に切り替える ── AIネイティブな仕事の作法シリーズで詳述したやり方。 Office 互換層は 入口と出口だけにして、中身は構造化テキストで保つ。 こうすれば、後で AI に渡す・検索する・差分を取る ── すべてが楽になる。
過渡期は OnlyOffice / Thunderbird / Firefox を併用する(OnlyOffice は MS Office との見た目互換性が高く、第11章で本書のオフィス代表として扱う)。 ただし最終的には 「Office 互換ソフトすら、ほぼ使わない」状態を目指す のが本書の立場。
C. 習慣として失うもの 「スタートメニューを押すと検索ボックスがある」「右クリックでOneDriveに送る」「Ctrl+Shift+Escでタスクマネージャ」——二十年かけて身につけた手癖。最初の数週間は意識的に置き換える必要がある。
D. 周囲との互換性 同僚がWindows/Office、取引先がExcelマクロ付きのファイル、家族がWordの書式にうるさい。この部分の摩擦は、あなた一人の問題ではないので解決に時間がかかる。
Claudeに聞いてみよう①:失うものの棚卸し
私は今、〔OS名とバージョン〕で、次のソフトウェアを日常的に使っています:〔ソフト名を列挙、できれば用途も〕。仕事は〔業種・役割〕で、〔組織の規模、社外とのやり取りの頻度〕です。
これらを前提に、Debianに移行したとき、次の四カテゴリに分けて私が失うものを洗い出してください: A. そのまま動かないソフト B. 代替はあるが完全互換でないもの C. 習慣として失うもの D. 周囲(同僚・取引先・家族)との互換性の問題
カテゴリごとに、深刻度(高・中・低)と、簡単な対処案を添えてください。
Claudeの答えはあなたの状況に応じてカスタマイズされる。返ってきた表はテキストファイルに保存しておく。 後の章で何度も参照することになる。
深刻度「高」が一つでもあるなら
深刻度「高」のAカテゴリ(代替のない業務ソフト)が一つでもあれば、いきなり全PC移行はしない。次の三つの選択肢のどれかを取る。
- 移行対象を主作業PCから外す。 そのソフトを使う用途を別のPC(古いWindows機)に残し、メインはDebianに移す。
- 仮想マシンでWindowsを動かす。 Debian上のKVMやVirtualBoxで、必要なときだけWindowsを起動する。ただし、GPUを強く使うソフトでは性能が出ない。
- 代替の可能性を本気で検討する。 「絶対に代替不可能」と思っていたソフトも、Claudeに代替案を列挙させると、意外な選択肢が出ることがある。
この判断をするのが、この章の核心だ。
第二節 得るものを誇張せずに並べる
抽象的な賞賛を避ける
「自由」「速い」「安定」「無料」——入門書でよく見る形容詞は、抽象的すぎて判断材料にならない。あなたの生活でどう具体化するかをClaudeと整理する。
Claudeに聞いてみよう②:得るものの具体化
前の質問で棚卸しした私の環境と仕事を前提に、Debianに移行することで具体的に得られるものを次の軸で整理してください:
- 時間の節約(起動時間、アップデート待ち、再起動の頻度、アプリ起動の速さ)
- 金銭の節約(OS、Office、セキュリティソフト、クラウドストレージのサブスク等を年額でいくら)
- 精神的な獲得(勝手なアップデート、強制再起動、広告、テレメトリーからの解放)
- 技能の獲得(コマンドライン、パッケージ管理、設定ファイル編集、Claudeとの対話)
- 長期的な自立(ベンダーロックインからの距離、古いハードウェアの延命、Mythos時代の攻撃面縮小)
各軸について、数字か具体例で答えてください。「素晴らしい」「快適」のような形容詞は使わずに。
Claudeに形容詞を禁じるのはコツだ。抽象表現を封じると、答えが具体的になる。
「本当に得られるのか」を検証する
Claudeの答えを鵜呑みにせず、疑って追い打ちをかける。
今の答えの中で、「Debianに移行すれば必ず得られる」と断言できるものと、「人や用途によっては得られないかもしれない」ものを分けてください。後者については、どういう条件で得られないか説明してください。
この問いでClaudeは正直になる。例えば「金銭の節約」は確かだが、「速度の向上」は古いハードウェアで顕著で、最新ハイエンドPCでは差が小さいといった具合に、条件付きの答えが返る。
第三節 損得を一枚の表にする
表にして、手元に残す
失うものと得るものを、見開き一枚の表にする。フォーマットはこんな形だ。
# 私のDebian移行 損得表 (作成: 2026-04-23)
## 失うもの
| カテゴリ | 具体 | 深刻度 | 対処案 |
| --- | --- | --- | --- |
| A 動かない | Adobe Premiere | 高 | DaVinci ResolveのLinux版に移行 |
| A 動かない | 社内の△△システム | 高 | 仕事用に古い Windows 機を残す |
| B 代替あり | MS Word | 中 | 自分の作業は **Markdown**、配布時に pandoc で .docx 化 |
| B 代替あり | MS Excel | 中 | 自分の作業は **CSV + pandas**、配布・確認は **OnlyOffice** |
| B 代替あり | MS PowerPoint | 中 | **Markdown + Marp** でスライド作成、PDF / .pptx に出力 |
| C 習慣 | OneDrive右クリック | 低 | rsync スクリプトに置き換え、または Syncthing |
| D 互換性 | Excel マクロ付きの月次報告 | 中 | 自分用は Python(uv + pandas)、確認・提出は **OnlyOffice** |
## 得るもの
| 軸 | 具体(数字で) | 条件 |
| --- | --- | --- |
| 時間 | 起動 30秒→8秒、アプデで待たされる月2時間→0 | 古いSSDならさらに差が大きい |
| 金銭 | Office 365 年14,000円、Win Pro相当ライセンス、セキュリティソフト 年6,000円 → 計年20,000円超の節約 | 業務互換のため1ライセンスだけは残すなら半額 |
| 精神 | 勝手な再起動ゼロ、広告ゼロ、Recall無効化のストレスゼロ | —— |
| 技能 | コマンドライン、パッケージ管理、Claudeとの運用対話を日常に | 最初の1ヶ月は学習コスト |
| 自立 | 10年物のPCを蘇らせる、Mythos時代に自分でパッチできる | 学習を続けた場合に限る |
## 結論
総合判断:〔移行する/業務用1台だけWindowsを残して主作業はDebianへ/保留〕
判断の決め手:〔一行で書く〕
この表はテキストファイル(Markdown)で残す。Wordで書かない。あなたの最初のDebianドキュメントが、あなたがまだDebianを使う前に生まれる。
Claudeに聞いてみよう③:表の叩き台を作ってもらう
前の2つの質問で出た内容を、以下のMarkdown形式の表にまとめてください。数字と具体で埋めてください。形容詞は入れないでください。〔上の表のフォーマットを貼る〕
これで叩き台ができる。あとはあなたが手で埋める余地を調整する。
第四節 判断を下す
四つの結論パターン
損得表を眺めると、結論は次のどれかに落ち着く。
パターン1:全面移行する。 失うものの深刻度がどれも低〜中で、代替がある。得るものが明確。——メインPCのWindowsを消してDebianに一本化。この本の残りをそのまま進められる。
パターン2:主作業はDebian、業務用1台だけWindowsを残す。 Aカテゴリで深刻度「高」が一つか二つあり、そのソフトを使う仕事は一部に限られる。——主作業PCはDebian、仕事の一部だけ別のWindows機。本書はほぼそのまま使える。
パターン3:移行を半年先送りする。 今すぐ代替不可能なAカテゴリが多い。まず代替調査に時間をかける。——この本の第1部と第5部を先に読んで、準備を進める。第2部(インストール)は後回し。
パターン4:移行しない。 業務の中核にAカテゴリが埋め込まれていて、代替の道筋が見えない。——正直にそう判断する。本書は「Claudeとの学び方」の練習として残りを読む価値はあるが、実行はしない。
パターン4でも、この章を書いた時間は無駄にならない。自分の環境を言語化したドキュメントが手元に残るからだ。これは将来、状況が変わったときに役立つ。
書き出さないと判断できない
ここで最も重要なのは、頭の中で考えるだけで済ませないことだ。必ずテキストに書き出す。表にする。Claudeと往復して精度を上げる。
書き出す前の「なんとなくできそう」「なんとなく不安」は、事実とほとんど関係がない。書き出した瞬間、初めて判断材料になる。
まとめ
この章でやったこと:
- 失うものを四カテゴリで棚卸し(Claudeと一緒に)
- 得るものを五つの軸で具体化(形容詞禁止でClaudeに)
- 一枚のMarkdown表にまとめる
- 四つの結論パターンのどれかを選ぶ
手元に残ったもの:
debian-migration-decision.md(損得表)- 判断の決め手を一行で書いたメモ
次の第2章では、Claudeとの対話の始め方そのものを扱う。いい質問の立て方、悪い質問の例、対話が行き詰まったときの抜け方——Debianを学ぶための土台として、対話の技術を整理する。
シリーズ全体はClaudeと一緒に学ぶDebian 一覧から辿れる。コメント・議論は Facebook グループへ:AISeed — 生物多様性・食料・AIと暮らし